3・13は、埼玉の飛行場から、気仙沼の施設に向けて飛び立った。
3台のヘリコプターで。
チョコレートなどの、食料を積んで。
金魚鉢みたいな作りで、全体ガラス張りで、足元まで眼下が良く見えた。
まるで、一人で椅子だけで、空を飛んでいる気分だった。
怖かった。
それ以来、今だに、ヘリコプターは、怖くて乗れない。
気仙沼まで、ヘリで2時間30分。
眼下には、原子力発電所の煙も見えた。
波に乗せられて、浜辺に寄せるものも見えた。
木々だと思ったものが、後になって、人だと気がついた。
とにかく、緊張と恐怖と使命感で、東北を目指した。
気仙沼の施設の駐車場に強制着陸をした。
停電で、真っ暗な施設のロビーに入ると、和服の女性が多数いた。
市民が、同居の家族を施設に預けて置いていったのだ。
他の家族を探しに行くので預かってほしいと。
ロビー、デイのスペースに布団がひかれている。
施設内も、寒いので、まずは、布団の下に段ボールの紙を引いてもらった。
事務所の非常電源には、炊飯器と湯沸器が並んでいた。
食事は、全員、おにぎり1個と、味噌汁1杯。
高齢者も、スタッフも。
スタッフは、全く家に帰れない。
家族の安否も心配だったろうに。
実際、全職員の安否を確認するのに、2週間近くかかった。
更に、復興の仕事の第一は、職員寮を建てる事だった。
多くの職員の家が全壊していた。
とにかく、その時の施設には、地域のお年寄りが逃げ込んで来る。
停電、断水の施設は、トイレも、エレベーターも使えない。
食事どころではなかったろう。
停電では、北国の冬は、生きていけない。
実際、海辺の介護施設で、2階まで水没したが、全員屋上迄逃げてその場は助かった。
でも、翌朝の雪で、多数の高齢者が命を落としたと、聞いた。
ヘリの1機が、空港にガソリン燃料を買いに飛び立ったが、いつまで経っても帰ってこない。
後からわかったが、民間なので、ガソリン燃料を売ってもらえなかったのだ。
最初から、片道切符の旅だったのだ。
救援に行ったつもりが、自分が遭難してしまった。
両親も、職員も、私が気仙沼まで飛んできている事は知らない。
その時の経験で、その後は、施設に衛星電話を設置した。
これでは、私と言う、帰宅困難の被災者が増えただけだ。
でも、夕暮れ時になると、ワゴン車が続速と施設に到着した。
山形の病院から、救援隊が到着したのだ。
お互いに、驚いた。
向こうの方が驚いたに違いない。
私を幽霊だと思ったに違いない。
行きの道中は、2時間30分。
帰りの道中は、救援隊のワゴン車に同乗させてもらって、2日かかって、東京に無事帰れた。
山形の救援者で、福島まで送ってもらい、福島から東京迄は、静岡からの救急車で送ってもらった。
帰りは、宅急便の荷物のようだった。
私は、全て、湖山Gの全国からの救援隊によって、救援されたのだ。
湖山Gの全法人は、私からの、何の練絡も指示もない中で、自主的に東北に救援車を出したのだ。
全国から。
山形のチームは、地震の2時間後から、動いたと言う。
私は、湖山を救いに行き、湖山に救われた。
その時の熱い思いと、仲間の行動に何度感激した事か。
サンダーバードを創設した意義はあったと確信した。
人を助ける為に、自らを助く。
自主的行動は、今でも湖山Gの誇りだ。
パルスオキシメーター 98・97・97
体温36.5 血糖150
病院船出港 船長代表 湖山 泰成
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