私は、人生、多数の医師と交流して来た。
勿論、私にとって、医師像の原点は、父である。
一高、東大、沖中内科、虎ノ門病院、銀座病院院長の経歴の消化器内科の医師は、当時のエリート医師であったし、また、患者の事しか考えない、赤髭のような医者でもあった。
父の趣味は、囲碁将棋ゴルフで、週末は、友人であり患者の財界人とゴルフを楽しんでいた。
でも、その日曜日のティーグランドで、さあ、これからと言う場面で、患者から電話がかかって来て、その方の療養先に飛んでいく場面を見た事がある。
その時は、パトカーの先導で箱根の別荘に連れて行かれたのではなかったか。
子どもの頃から、父の同期の偉い大学教授の方を知る事があった。
皆さん、酒とタバコを嗜む、自分の健康にこだわらない医師が多かった。
青春を戦争時代で過ごした世代だからだろうと、推察して来た。
今は、父とは、全く違った、社会派の医師の事を考えている。
その先生は、中央大学の社会学部を卒業してから、30歳を過ぎて医学部に入学し直した人である。
医療を社会から考える。
医療を人生哲学として捉える。
書かれた本も、哲学書、人生論のような固い内容だった。
勿論、売れないし、私も読んでも、捉えどころがなかった。
酒もタバコも、娯楽も避けるような、修行僧のような生活だったと思う。
そんな、風変わりな医師ではあったが、実は、1番最初に、湖山の理念を評価して下さった医師でもあった。
私より、湖山の社会性を評価していたのではないだろうか。
医療界では、異分子の私を最初に理解してくれた医師だったように思う。
その医師は、勿論ゴルフなどはせず、週末は友人と富士山を登っていた。
軽装で、ハイキングか、大学のワンダーフォーゲル部のような雰囲気だった。
「是非、一緒に富士山を歩きましょう、代表の仕事は、健康に良くありません」
などと、その先生からは、何時も誘われていた。
アウトドアの苦手な私は、何時も逃げていたが。
でも、どの医療法人の役員も、何時も喜んで引き受けて下さった。
どんな時も、私のする事を信用して、笑顔で引き受けて頂いた。
その先生が、慣れた山道で行方不明となり、生きて帰らぬ遭難者となった。
また、一人、古い戦友を失った。
ワンダーフォーゲルそのままの人生だったように思う。
魂は、今でも富士山を彷徨っているに違いない。
何時までも、湖山Gを見守っていてください。
パルスオキシメーター 98・98・99
体温36.2 血糖204
彷徨える魂 代表 湖山 泰成
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