泰成君は高校生です。
図書委員長で、3年間で当時の岩波新書全書を読破しました。
流石に、岩波文庫は敵わなかったのです。
早川ミステリのSFは手に入るのは、全部読破したと思います。
創元SF文庫は、諦めました。
同時に頼まれて、写真部部長をしました。
卒業アルバムの撮影を手伝いました。
父の古いライカM3を借り、暗い校舎の中で、スナップ写真を山のように撮りました。
しかも、木村伊兵衛を気取り、コダックのトライX400で。
プロ好みのモノクロームフィルム。
つまり、白黒、カラーではありません。
その頃、水俣支援活動をしていました。
暴力の学生運動に馴染めず、平和市民運動に力を入れていたのです。
その時に出会ったのが、アメリカ人写真家のユージン・スミス。
水俣の被害者家族の写真を撮っていました。
水俣病の娘さんをお風呂に入れるお母さんの写真。
どなたも、見ればわかります。
世界で最も有名な公害被害者の写真です。
この写真一枚で人生が変わった人は世界に大勢います。
キャパの銃弾に倒れる兵士の写真以上にジャーナリスティックな、私の人生を変えた一枚の写真です。
その後、泰成君は、東大の公害原論に参加し、公害環境問題の市民活動や、大学の市民講座にのめり込みました。
その写真家ユージン・スミスの言葉です。
見た者の責任。
見てしまった者の責任。
私が、経営よりも社会的活動の視点を大事にするのは、それが原点だからです。
経営者になりきれないのは、人生の目標が金儲けでも、出世でも、権力でもなく、社会改革だからでしょう。
環境問題の市民活動がスタートでしたから。
政治は嫌いです。
私にはむきません。耐えられません。
頭から消えることのない写真一枚と、その一枚の写真を撮ったカメラマンの人生の言葉です。
彼は、アルコール依存症になって、離婚し、孤独に自分の人生を終えました。
今の私達は、医療介護保育の福祉の仕事。
見た者の責任。
かかわった者の人生。運命。
28歳の時に病院会に入り、全国の民間病院を見学しました。
老人病院では、患者は、ベットに縛られ、薬漬けにされ、鍵の掛かった部屋に閉じ込められていました。
大部屋で、カーテンすらありませんでした。
看護介護上やむ終えない、という理屈ではありません。
人間として耐えられない。
その現場で、自分の目で、見てしまったら。
どんな認知症で暴れたとしても、こんな病院に親は入れられない。
せめて、自分の親を入れられる病院を作ろう。
その思いで、湖山病院を立ち上げたのです。
30年前の35歳の時です。
本日の新規職員PCR検査陽性者0
ご苦労様です。感謝致します。
今朝のパリスオキシメータ 97・98・99
湖山G代表 湖山泰成
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