昭和3年生まれの亡き聖道理事長は、一高寮生活の頃からヘビースモーカーでした。
戦争でまともな食べ物も娯楽もなく、碁、将棋、煙草しか楽しみがなかったからです。
コンサイス英和辞典のページを一枚ずつ破いて、タバコの代わりにその辺りの草を巻いて火を付けたそうです。
暗記しないと燃やせないから必死に暗記するのだと言ってました。(嘘だと思いますが。)
小学生の頃は毎週商店街にあるたばこ屋さんに缶ピースを買いに走ります。
あの青いピースの缶は日本が誇るデザインです。父はパイプに凝った時代も長くありました。
曇った日曜日の午後に縁側に新聞紙を引き、パイプ煙草を拡げてブランディをかけます。
オリジナルカクテル、オリジナルコーヒーブレンドと同様の父のこだわりだったのでしょう。
でも、それ程長くは続きませんでした。面倒なのと、母に不評だったのだと思います。
凄い臭いですから。芳醇な香りと感じるのは吹かしている本人だけです。
そして、泰成くんは二十歳になると、やめれば良いのに好奇心で煙草を始めます。
夏休みの1ヶ月、毎日一箱だけ練習を始めました。毎日むせながらも。
シャーロック・ホームズの影響でしょう。
今はない赤いデザインのcherryです。
やがて親に見つかります。
チョット書斎に来いと呼ばれて、説教が始まります。
如何にニコチンが体に良くないか。
でも、その間説教の主は煙草を指に挟んだままです。
その事を突くと、父は恥じる事なく言いました。
私ですら、吸い始めたら辞められないのだ。
今ならまだ辞められる。
せめて、酒か煙草のどちらかにしろ、と。
即時答えました。煙草をやめます、と。
むせて苦しい煙草など未練はありませんでした。
今は考えます、あの時煙草を取り酒をすてていたらと。
泰成くんのその後の人生はだいぶ変わっていたでしょう。
小さな偶然で人生の道が決まります。
今でも紅茶を飲みながらこのメールを打っていますのでご安心ください。
父は60代の頃から煙草をスッパリ辞めました。
健康の事を考えてです。人間とは勝手なものです。
それ以来煙草を吸っている職員を見ると、そんなもの早く辞めなさい、と説教します。
気にしないで下さい。人生、生きているうちが花。
長期喫煙者が、今さら禁煙しても、さほど余命は伸びません。
好きにして下さい。但し、私が近くにいる時はご遠慮下さい。
私は吸いませんので!
何時の日か診察室で担当医が今日の血液検査データとCT画像を見つめるとおもむろに私に言います。
湖山さん、これからは、酒でも煙草でも好きにして良いですよ、と。
でも、人生最期の日々も紅茶を入れて、この日記を綴ると思います。
静岡の新茶を煎れれば、静岡事業の事を考えます。
お土産に頂いた中国茶を飲めば、中国に行っている清水先生や玉村さんの事を思います。
ミャンマーの紅茶を飲んでミャンマーからの実習生の顔を思い出します。
1人部屋に蟄居していても、思いは世界に飛びます。
心は湖山の全てにつながります。